今回は、柿沢未途の父 柿澤弘治も東大卒エリートだが離党復党を繰り返す変わり者だった… ということで柿沢未途議員のお父様の情報に関してまとめています。
柿沢未途議員と言えば、2008年に起こした、知人と焼肉店で飲食後、首都高速道路で酒気帯び運転による自損事故を起こし、飲酒の発覚を免れるために雪を食べたというエピソードが有名かと思います。
そんなちょっとポンコツ気味の議員で話題になった柿沢未途議員。
そのお父様も実は、ちょっと変わり者だったらしい…ということで早速詳細を見ていきましょう。
柿沢未途の父は柿澤弘治
柿沢三途議員の父親 柿澤弘治のお顔写真がこちら。
引用:X
息子の柿沢未途議員とどことなく似ている雰囲気がありますよね。
引用:自由民主党
柿沢三途議員の本名表記は、柿澤未途。
難しい方の澤ですね。
柿澤弘治の学歴・経歴
では、柿澤弘治議員の学歴、経歴からみていきましょう。
学歴
東京都立両国高等学校 卒業
東京大学経済学部経済学科 卒業
経歴
1958年 大蔵省(現財務省)に入省(本省勤務の他、外務省や経済企画庁への出向やフランス、ベルギーでの海外勤務を経験)
1974年 三木内閣で井出一太郎内閣官房長官の秘書官を務める
1977年 第10回参議院議員通常選挙 初当選
1984年 第37回衆議院議員総選挙は自民党公認で当選
1994年 羽田内閣で外務大臣に任命(内閣が2ヶ月しか続かなかった)
柿澤弘治の育ち
下町の零細商店主の家に生まれた。実家は、江戸時代創業の葛籠屋「柿澤常次郎商店」。東京大空襲の際には焼け出されており、幼少期には苦労もあったそう。
ただ、この「柿澤常次郎商店」は、5代にわたり、150年間も続いたが2003年に廃業していている。
柿澤弘治の実績
柿澤弘治氏の1番の実績は、1994年 羽田内閣で外務大臣に任命されたことになります。ただ、この内閣が2ヶ月しか続かなかった…。
引用:Wikipedia
政界随一の「国際派」として、英語、フランス語が堪能だったそうだが、生かす機会に恵まれず、終わっています。
更に、冒頭でも申し上げた通り、1977年の第10回参議院議員通常選挙に新自由クラブ公認で東京都選挙区から立候補し、初当選。1980年、参院議員を任期途中で辞職。
その後も、新自由クラブ→自由民主党→自由党→自由改革連合→自由連合→自由民主党→無所属→無所属の会と離党復党を繰り返しており、信頼を得ることが出来なかったためか、その後は重要なポストにはつけていません。
ちなみに、息子の柿沢未途議員も、無所属→民主党→無所属→みんなの党→無所属→結いの党→維新の党→民進党(江田G)→希望の党→無所属→自由民主党(谷垣G)と政党の渡り歩き方が尋常ではありません…。
柿澤弘治の変わり者エピソード
息子の柿沢未途議員もなかなかの変わり者ですが、そのお父様も負けず劣らずらしいんですよ…。
変わり者エピソード①
政治家の家系でないのに選挙に挑戦して初当選というのは、その当時は、常識破りだった。
変わり者エピソード①
「下町のケネディ」や自らの名前にちなんだ「早く芽を出せ柿のタネ」等のキャッチフレーズを用い、白のスーツを着用し、選挙区内を流れる江戸川でモーターボートを走らせながら演説をする等、ユニークな選挙戦術をとっていた
変わり者エピソード➂
羽田内閣で外務大臣に任命。
認証式の後に首相官邸で行われる記念撮影で、赤いカーペットの雛壇の最前列に並ぶために無理やり割り込もうとする映像が「ブロードキャスター」で取り上げられてしまった。
もちろん、長い政界経験の中で、目に見えていない実績等はおありになるのでしょうが、なかなかインパクトの強い変わり者エピソードが割と有名になってしまっているようです。
更に、多くの派閥、政党を渡り歩いてきたことから、変わり者という異名を持つことになってしまいました。
柿澤弘治の家族情報
柿澤弘治氏は、河野映子さんと結婚。
映子さんの父親は、元日本銀行副総裁、母親は、誠子は日本人で初めてノーベル賞を受賞した物理学者・湯川秀樹の従妹にあたるというエリート一家。
映子さんご自身も、緑内障で視野の90%を失った経験を活かし、緑内障フレンド・ネットワーク (GFN) 代表を務められていました。
引用:東京時代
その後、長男 柿澤 未途議員、そして長女、次女をご出産されています。
まとめ
今回は、柿沢未途の父 柿澤弘治も東大卒エリートだが離党復党を繰り返す変わり者だった… ということで柿沢未途議員のお父様の情報に関してまとめてきました。
柿沢未途議員と言えば、何かとお騒がせポンコツなんて言われてきましたが、今後その名に反して名を揚げることが出来るのでしょうか。